節分草自生地(秩父郡小鹿野町)

秩父郡小鹿野町両神山の麓に、日本一の規模という「節分草」の自生地がある。

節分草はキンポウゲ科多年草。その名の由来は節分の頃に咲くからとされているが、疑問。詳しくは後述する。

 

自生地までは路線バスも通ってはいるが本数が少ない。近辺には駐車場も広く取ってあるので、まず満車ということにはなるまいと思う。入場料は300円。

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石灰岩質の土地に好んで生える。日本原産で、環境省レッドリストでは準絶滅危惧。

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白い萼は通常5枚であるが、6枚、8枚と多いものもある。

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白い花びらのように見える部分は萼で、黄色いY字になっている部分が花弁。中央の青紫色の部分が葯。

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盛りには1週間ほど早かった。最盛期には地面が真っ白になるほど咲くという。

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一草一花で、同じキンポウゲ科のイチリンソウに似ている。古くはイチリンソウと混同されていた時代もあったようだ。

本当に可憐という言葉がぴったりの花だった。しかしキンポウゲ科の植物なので有毒らしい。なるほど、可愛い花には毒があるというわけだ。

 

 

以下は江戸時代の文献に載る節分草についてと、名前についての愚考。

近世以前の節分草とその名について

文献上の初出は、私の知る限りでは1733(享保十八)年成立の五代目(四代目とする説もある)伊藤伊兵衛による『地錦抄附録』。

(引用ここから)

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節分草
花形いちりんさうに似たり、一莖一輪づつ開く色白く梅花のかたち、寒中より葉を出し立春の頃花開くゆへ節分草といふ、花実ともに霜雪の内にいさざよくながめ珎賞せり(引用ここまで)

伊藤伊兵衛は江戸染井村の園芸家として著名な人物である。山地に咲く花であるが、江戸中期には既に園芸植物としても知られていたようだ。節分は季節の変わり目である。厳しい冬が終わり、うららかな春の到来を告げる花として名が付けられ、江戸時代の人々にも愛されたのかも知れない。

 

江戸後期に入ると、本草学の大家であった小野蘭山が1805(文化二)年に『本草綱目啓蒙』を出版。そこに『本草綱目』にある“莵葵”(トキ)というアオイの一種の和名として節分草をあてて、次のように解説している。(以下引用)

「莵葵 イへニレ(和名鈔)
集解ニ説トコロ一ナラズ、大抵三種ニ別ツ。恭ノ説トコロノ者ハ、和名セツブンサウ、一名一花草(筑前)、山足或ハ原野ニ生ズ。小寒ノ候舊根ヨリ一莖ヲ抽ヅルコト一寸許リ、其梢ニ一葉アリ、白頭翁(オキナグサ)ノ花下ノ葉ニ似テ、至テ小ク、毛ナクシテ深緑色ナリ。葉中ニ一花ヲ包ム。立春二至テ開ク故ニ節分艸ト云。人家ニ移シ栽ルモノハ半月後レテ開ク。形梅花ノ如ク、大サモ同ジ。ソノ瓣尖リ、或ハ鋸齒アリ、色白クシテ中ニ白蘂多クアリ、花謝シテ葉ヲ生ズ。烏頭葉ニ似テ至テ小ク岐多クシテ深緑色、大サ一寸餘、一根二三葉ニ過ズ。夏ニ至テ枯ル、花後小扁莢ヲ結ブコト二三箇、長サ二三分、内ニ二三子アリ、鳳仙花子ノ如ク褐色、熟スレバ莢自ラ裂テ子落チ、次年ノ春生出ス。其根形圓ニシテ半夏根ノ如シ。(引用ここまで)

恭とは唐代の本草学者・蘇恭のことである。蘇恭の言う莵葵は、日本の節分草であろうというのだが、節分草は中国には無い野草なので、これは外れている。しかし、節分草自体の説明はまさしく節分草のそれで、山裾や原野から家の庭に移して園芸として楽しんでいる人も居ることも物語っている。

また「筑前」とは筑前に居住していた日本人初の本草学者、貝原益軒の『大和本草』1709年(宝永六)のことである。同書には次の様に書かれている。

一花草 葉ハツタニ似テ莖ノ長二寸ハカリ、冬小寒二始テ葉ヲ生シ立春ノ朝花忽ヒラク、一ノ茎ニ一ノ花ヒラク、花形白梅二似タリ、夏ハ枯ル、他地ニウフレハ花ノ時チガフ

なるほど、葉がツタに似ているというのはどうかと思うが、他の特長はよく節分草と一致している。一輪草より花期が早いので、節分草のことかも知れない。となれば初出は『大和本草』ということになる。

 

続いて幕臣の岩崎常正が1828(文政十一)年に『本草図譜』を出版。岩崎は小野蘭山に本草を学んだ弟子である。(以下引用)

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一種 せつぶんさう
相州筥根其外山足にあり、山中にてハ節分のころ生ず。人家に栽るときハ正二月に生ず。葉烏頭(カブトキク)に似て小く茎長サ二寸許一茎一花を開く。五辧白色梅花の如し。根に圓き塊リありて延胡索に似て黒褐(ウルミイロ)なり。以上三種、蘇恭説くところのもの是なり。(引用ここまで)

岩崎も莵葵の一種として分類している。

注目すべきは、伊藤と小野が「節分の頃咲くから節分草」と言っているのに対し、岩崎は「節分のころ生ず」と言っているところであろう。この自生地でも例年花が咲き出すのは2月下旬になってからであり、節分の頃には花は影も形も無いはずである。明治初期の画家・巨勢小石の『七十二侯名花画帖』は、季節を二十四節気の三乗、72に分け、折々の花を描いた詩画集であるが、節分草を「雨水一候」(2月下旬)に描いている。

節分草は多年生であるから、葉は毎年初夏の頃枯れる。そして翌年節分の頃に地下根から芽を出し、茎と葉を伸ばし、2月下旬から3月上旬頃に可憐な花を咲かせるのである。従って「節分の頃に芽を出すから節分草」という方が正しいのではないだろうか。

ただし、平地の日当たりの良い場所ならば節分頃に咲いてもおかしくはない。福寿草も自生のものより平地で栽培されているものの方がかなり早く咲く。もしかしたら、江戸期、園芸を楽しむ人の手で平地に移植された際、一花草という名では一輪草と紛らわしかった。そこで、暖かな場所で自生のものより早く咲いたため、節分草という名を付けられたのかもしれない。

 

さて江戸末期になると、日本にも蘭学が入ってくる。やはり小野蘭山の弟子で、大垣の蘭方医・飯沼慾斎が1856(安政三)年に出版した『草木図説』は、フォン・リンネの分類法によって植物を分類した日本で初めての図鑑であるが、そこでは節分草を次のように解説している。(以下引用)

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セツブンサウ 莵葵
幽谷樹陰ニ生。茎高三五寸。梢上四五葉輻次シ。毎葉三五裂ニシテ頭不斉。中心短梗ヲ抽一花ヲ放ク。五辧白色略梅花ノ如クシテ縦ニ條脉アリ。実礎牛角状二三箇並置シ。雄蕊二十許○(林カ)ニ出葯淡藤花色。又雄蕊外ニ蜜槽八箇アツテ相圍ム。形漏斗ノ如ニシテ頭殆ト四裂。ソノ二ハ小二ハ稍大ニ毎端滑沢黄色。此種全形略一リンサウノ如ニシテ小。根ハ一リンサウト異ニシテ。茎下長鬚根ヲ引キ末ニ一珠塊アリ。形零餘子(ムカゴ)ノ如シテ外面黒褐裏白色。味微渋ニシテ帯耳。一根一茎或ハ二茎ヲ出ス。ソノ萠芽寒ヲ冒シテ早クメ花アリ。故ニ節分サウノ名ヲ得。

 飯沼ほどの観察眼の持ち主でも莵葵として分類してしまってはいるが、その形状の解説は完璧である。江戸末期に、既に日本の植物学はここまで来ていたのかと、静かな感動を覚えずにはいられない。「葯淡藤花色」。そうだ、私は青紫色などと書いたが、淡藤花色と表現した方がより趣深い。

そして「萠芽寒ヲ冒シテ早クメ花アリ」。やはり、春を待ち焦がれる人々の思いが、この名を付けさせたような気がしてならない。暦は立春になったぞ、早く咲いて春を連れてきておくれ、と。