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2016年夏の旅(10日目)石見大森銀山

散歩

9月2日。晴れ。今日辺りから夏の暑さが戻ってきそうだ。

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温泉津の猫。

昨晩と朝の2回、ゆっくり温泉に浸かったものの、今日で旅も10日目。連日の長距離移動もあり、さすがに疲労が溜まってきた。

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温泉津の町並みは、今日訪ねる大森銀山の町並みとともに「重要伝統的建築物保存地区」に指定されている。「重伝建」になると町並み整備予算が出るのか知らないが、いかにも観光地然とした町並みになってしまうので、善し悪しなんだよなあ…。温泉津も整備が始まっていて、昔のままの姿を見られるのはあともう少しの間だけかもしれない。

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旅の僧侶が温泉に浸かって傷を癒やすタヌキを見たことで発見された、というのが温泉津温泉の開湯伝説。動物が浸かっていて…というのは全国いろんな所にある伝説だけれど、タヌキというのが可愛らしくて良い。

 

石見大森銀山


宿から温泉津駅まで車で送ってもらい、09時04分発の快速アクアライナー大田市駅09時26分着。

駅前からバスに乗り換え石見銀山方面へ。さすがに世界遺産登録されているだけあって、平日といえどもバスの便も客も多い。ユネスコ様々である。
大森町には10時前に到着。
ガイドさんに案内してもらいながら、一般公開されている「龍源寺間歩」まで歩く。

銀山に関しては世界遺産ということもあり、メジャーすぎる観光地なので、ここでは手抜きさせていただく。私なんかよりずっと詳しく紹介されているサイトやブログがいくらでもあるだろうから。しかし何も書かぬというのも味気ないから、木村晩翠『石見物語』(1932年)の「大森銀山と五百羅漢」の章に、往時の銀山町の隆盛ぶりが見事に描写されているので、丸ごと転載させていただいてお茶を濁すことにする。(以下引用)

 

左右の翠巒に包まれ他では味はへぬ無限の靈氣を漂し、不思議な程人に幽隱の情と、何となく冷たい觸感を與へる海抜四百五十尺の渓間に介在せる大森町は、其昔天領大森銀山の支配地として代官所を置かれ、人口十萬、寺院百ヶ寺を抱擁した大都會であつた。在りし昔の大都會の面影を想ひ浮ぶるの時、今の索寞たる大森町の姿は餘りにも變つて居る事に驚かぬものはあるまい。いふ迄もなく衰微の原因は銀山の廢坑と、全く鐵道に恵まれざる交通不便の爲で、現時戸數は僅か五百に減じて居る。
(中略)
古より産額の最も多かつた時代には、鑛夫冶工其他勞役に服するもの合せて二十萬人、一日の食米千五百石、車馬の往來每に絶えず、家は家の上に建ち、軒は軒の下に連りて戸數二萬六千餘、附近の津々浦々には四方の商船が輻湊して、糧食衣服の類より珍器重寶を齎らし來つて雲の如く、其繁盛は言語の外であつた。(引用ここまで)

 

1923年(大正十二)に、当時の藤田組が最後の銀鉱を閉めてからまだ10年も経たない時期だというのに、既に人口が激減し、一時は世界の銀産出量の1/3を占めたとも言われる鉱山町の面影すらもなくなっていたことがわかる。しかしそれから75年のちに、この廃鉱山が世界の注目を再び集めることになるとは、ふるさと石州を愛して已まなかった木村も想像していなかったに違いない。

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尼子、大内、毛利の激しい争奪戦が繰り広げられた山吹城址登山道もあるが、とても登る気にはなれなかった。

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あちらこちらに間歩と空気抜きの痕跡が残る。

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「重伝建」大森銀山地区。

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2011年、「理容遺産」に認定された理容館アラタ。大正末年の建築らしい。残念なことに閉まっていて、中を見学できなかった…。

 

15時50分大田市駅発17時08分米子駅着。米子皆生温泉にて泊。10日目終。