2016年夏の旅(12日目)その1:姫路城

9月4日。12日目。姫路の空は真っ青に晴れ渡った。
思えば、この旅の初日の宿泊地がここ姫路であった。私は中国地方を丸々一周して再び姫路に戻ってきたことになる。中国大返しどころではない。暇人にも程があるというものだ。

しかしそれはこの姫路という土地が、それだけ交通の要所であったことを証明していることにもなるのではないか。

山陰道は険しく、海を行き小浜や敦賀に上陸するにしても、結局山越えが待っている。地元播磨の豪族であった黒田官兵衛が秀吉に、この姫路に城を建てることを進言したというが、その理由が分かるような気がするのである。


8時半過ぎにホテルを出て、9時開場の姫路城を目指して歩く。猛暑が戻ってきて、まだ8時台だというのに汗だくになる。

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今日は日曜日だから、城の入り口には既に大行列が出来ていた。その上、入場料が1000円もかかるので逡巡したが、ここまで来て入らないのも癪だし列に並ぶことにした。

姫路城

言わずと知れた日本における世界遺産認定第1号(法隆寺と共に)の国宝である。これだけメジャーな観光地なら、写真も解説も、私が撮ったり書いたりしたものよりも良いものが沢山あるだろうから、ここにはいちいち載せない。たとえばWikipediaの姫路城の項を覗いてみたが、それなりの文献を引用してまずまずよくまとまっているので、私のような素人には十分の内容であった。

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しかしせっかく訪れて何も書かぬと言うのも味気ないから、「大阪城昭和再建天守」の設計を担当した古川重春が著書『錦城復興記』(1931年)の「姫路城」の項に面白い文章を書いているから、これを転載しようと思う。(以下引用)

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輝政の築く五層天守

羽柴秀吉の築く天正九年(1581)の三層櫓にては百萬石の大守として威力武力財力の三拍子を發揮し領民に君臨し四隣を壓し且つ中國九州への押への城としては餘りにも物足らなかつた。

是は家康の雄圖から出たものと察せらるゝが當時既に大阪城は安土の影響を受け秀吉の築きし五層八重の大天守が雲際に聳え立ち更に伏見には秀吉の據城あり、何れも當代文化の反映であると後の世までも推奨される金瓦絢爛雄大豪華なる樓閣建築としての最大限度の發達振を目のあたりに見るにも不拘、爰に姫路城の如き武備をのみ主眼としたる純軍事的質朴純眞何等の虚飾を施さずして布置の巧妙を極めたる大天守の生れ出でし事は我邦城郭建築發達上實に興味ある問題にして其遺物は此意味に於て非常に尊いものである。

 

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姫路城五層天守成る


慶長六年(1601)春愈々其の工を起し三層天守を初め諸櫓閣を解き捌き、其規模を改め五層六重の天守閣を主としてこれに相應しき三層四重の複合式小天守を附隨せしめ更に渡櫓を以て隅矢倉を聯結せる大類(伸)博士の所謂、聯結式の大天守

複雑巧緻を極むる唯一獨自の計畫とは悉く防備を主眼として築きしもので之は輝政の千軍萬馬の經驗より割出されしものと察せられ殊に我邦の城郭中最多數の城門を有つ點を研究して見ても、どこまでも防守を本意としたる牙城として實に代表的なものである、

斯くて慶長十三年(1608)此一大城郭白鷺城は愈々其工を完結したのである。

 

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天守閣の結構


姫路天守閣は外容の複雑にも勝る高低起伏な平面を有ち一旦城門を入れば恰も迷路を辿る如き幻惑を意識せしむる其布置は繩張圖及建物平面實測圖を參照すればよく判明すると思はれる、
其外觀は明確なる五層であり、名古屋天守の様に各層が全然分離して重り合つた五重塔式の單調なものでもなく又岡山城天守の如き三層とも六層ともつかない曖昧なる五層閣でもないが軒と妻の大破風が咬合つて軒甍交錯の外觀は桃山初期の天守閣建築様式の特長であり、天守閣建築の様式として此點に時代的劃線を持つものである。

 

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(西方向)

 

姫路天守閣の外容


第一層は囘邊總庇(グルリソウヒサシ)の名古屋天守とは非常に趣を異にしてゐる。第二層は外壁か第一層の外壁より幾分遞減してゐるを以て庇でなく完全な屋層を成してゐるのである、化粧軒を別に設けず野地裏化粧である、これが化粧軒裏の社寺建築と相違してゐる特點であらう、尤も大阪の新天守閣もまた化粧軒裏を採用したが之れは鐵骨持出梁を隱蔽する目的であつて桃山時代の城郭とすれば矢張り姫路天守の如くしたいのである。
姫路天守の第一層軒化粧は支外腕及支外桁を用ひずして持送りを用ひてゐる點は原初形を持つ初期の形式であるが、他の天守よりも犬山の如き古き初期の形式を遺存するものに之を見るのである、之は雄麗さはないが如何にも古城の感を與へてゐる、

そして行間の方には千鳥破風を用ひず兩妻に對してゐる、第二層東西側を入母屋大破風とした此雄大なる破風は第二層を全體の大屋根として取扱つたもので大阪城創建天守の影響を受けた事は恐らく動くまい。そして行間の方に軒大破風を用ひたると中央の塗り込め出格子を受けた、第一層第二層總割的雄大なる表現である、殊に唐破風の形體は大きく延びた中央部の平たいいばらの小さい其曲線は雄大の中にありて鳳の兩翼を延した如き輕快さの漂ふ處など非凡の作であらう、

 

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又屋根が彎曲なりに谷を設けず納めてあるのは實に珍しく城郭建築の時代的特色である。第二層兩妻大破風の引通し勾配は約七寸で破風巾の割合は流の十五分の一に相當し破風の腰巾を江戸時代の流の八分取りなどに比ぶれば城郭建築としては寧ろ輕奢なものであるが、江戸時代の大きな寺院建築の破風に見る様な鈍重さよりも鋭い剛健さを遺憾なく發揮して居る。
此特長を綿密に調査して更に研究して成つたのは大阪城天守の第三層南北大破風で設計者としての著者が人知れず苦心した重なる點である、併し姫路の此入母屋は妻入りか非常に深く且つ木連(きつね)格子を有たないから此點は見る人の感情に大なる錯覺を與へるであらう。

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(中略)
破風の三花懸魚唐破風の卯の毛通しが特に割合の小さいこと鬼瓦の形狀樣式等何れも桃山時代の特長であつて大に見るべき價値を有するもこれ等は何れも江戸時代の工匠によりて心なく補修され當初の樣式上の精神が大分殺がれて居るのは如何にも惜い事である。これは日本古典建築補修上の共通的缺點であつて只姫路城に限つた事はない。
第三層の軒が第二層大破風の屋根にぶつかつて居る屋蓋の納まりは是又初期天守建築の特長であつて慶長の晩年以降に築造された天守には此の樣式を見ることが出來ない、故に名古屋福山城の諸天守は何れも後代の樣式であることがよく分かる、

二箇對照の千鳥破風は上層唐破風、四層中央千鳥破風の屋蓋を受けたる「リズミカル」な作である。此種千鳥破風の生れた最初の形式は矢張り犬山城の如き實質上のものより次第に斯く飾物的に變つて行つたものと見られる。

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(東側。眼下に旧陸軍第10師団があった。現在は姫路市立美術館等になっている)


第四層妻の大唐破風は雄大なる大破風に重なる構造的表現の自在化であつて若し唐破風を用ひなかつたら第五層の直軒と大破風棟との「スペース」に外觀上非常に不調を來し見る影もない形容となるものであらう。第五層卽ち上層外壁に囘椽及勾欄を用ひない、且つ窓の扉は裏白である點など純軍事的建築であつて(中略)
總體的に屋根勾配は上に至るに從て強く軒隅の照(反轉)は同樣上程大きい、大屋根勾配は上層第五層屋根の如きはかなり強い勾配で引通し七寸八分内外である、
大阪新天守閣最上層勾配を余が前課長と激論を戰はし引通し七寸五分勾配を主張し通したのは姫路城の全姿を深く研究して居たが故であり且つ姫路城天守天正初建の大阪天守の影響を受け確かに一脉の通ずる處あるは何人も首肯し得る要點であろうと。

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内部の構造は唯頑丈を主眼とする大矢倉であり、思ひ切つた程梁を重ね合した幼稚な構架であるが如何なる大風にもギッとも音がしない故に安土城の如き長押を打廻した御座敷などは勿論なく廣き武者走りを各重に取てあるのを見ても軍事以外の點は少しも考慮して建てられたものと見受けられないのであり、天守の隅々にまで銃丸を設けたるなど尚更其れを裏書して居るものと考へられる。

余は研究中二囘本天守最上層大屋根の鯱の鰭を握った、姫路の鯱と握手した者は珍しいとして姫山の頂より更に雲際に聳ゆる大天守の大棟に達せし時恰も高峰を征服したかの如き痛快さを感じたものである。
(中略)

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姫路天守と棟梁の傳説

天正九年秀吉の築いた三層天守は慶長六年より同十二年に至り輝政に依て五層閣の現存する遺物のものとして大改築された其際大工棟梁として工を指揮した者の中に源兵衞、甚五郎、市右衞門の三人があつた、

源兵衞は櫻井姓を名乗り甚五郎は其養子で源兵衞棟梁の下に副棟梁の格となり、工竣へて一日源兵衞其妻を伴ひて城に登り三重までの柱が東南に傾斜せることを妻に看破されて其責任感から決意し遂に鑿を啣へて城頭より飛降り自殺せり、

余も登閣每に其實際を見たのであるが建物全體の傾斜でなく其部分の柱の傾である、原因に付ては棟梁の繩墨の誤りであらうと云ふ。
尚當城創築の際奇篤の老婆より挽臼までを獻して石垣に築きしと云ふ、是は當城附近より石材を急に取寄せるに困難な關係と當時の軍事關係よりして工を非常に急いだ事を裏書して居るものと見るのである。

 

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最後に姫路城天守閣は建築美の上より觀るも古今東西唯一のものとして城壘博士大類伸氏は之を推奨せり。其は同博士著城郭の研究、「建築各層の比例」の條に左の如く述べられたり。


(※以下孫引きにつき注意)
天守閣及び櫓はすべて二層以上の建築物である。而して其各層の比例は城の美觀と大なる關係を持つて居る。(中略)

全國の天守閣中で、最も調和の宜しくて威嚴を發揮してゐるのは姫路の天守であらう。實に播陽の平野に威風堂々として四隣を壓して聳えた有樣は、快感湧くが如くに起つて來るのである。其調和の趣は寫眞の上にも慥に認められる。今其の建築を見ると最下層は十二間に九間半で、最上層は四間半に六間であつて、五層の一大樓閣である。其の最上層は外見上別に重い觀も起らない、而も猶全體を壓するに足りる力を示して、誠に申分がないのである。
(引用ここまで)

 

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姫路城は、また平日にゆっくり来たい。書写山もあるし、姫路はまだまだ見るものが沢山ある。

 播但線10時44分姫路駅発、特急はまかぜ1号で11時43分に竹田駅着。

その2に続く