読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2016年夏の旅(9日目)益田、温泉津

寺院 神社 散歩

9月1日。

風は前日ほどではないが未だ強い。関東は台風の影響で大荒れだったようだ。

f:id:x-1:20160901071732j:plain

青海島からバスで長門市駅

長門市駅を7時53分に出る山陰本線で、益田駅に9時53分着。

 

医光寺庭園

 

益田駅から「医光寺行き」バスで益田市街の東にある医光寺へ。

f:id:x-1:20160901102156j:plain

これは島根県文化財の医光寺総門。伝・七尾城大手門の移築。いかにも中世山城の城門という武骨な趣だ。
ここ益田の領主で七尾城主であった益田元祥が、毛利家の家老として長門に移封された後、現地近くに移築されたものらしい。
医光寺はもとは現地にあった天台宗・崇観寺の塔頭であったが、南北朝期に衰えた崇観寺に代わって、当地の領主・益田氏の庇護を受け、主客転倒して大寺となったものらしい。

境内には国指定史跡・名勝の医光寺庭園がある。当寺の第5世住持、画聖・雪舟等楊が作った池泉鑑賞一部回遊式庭園である。

f:id:x-1:20160901103150j:plain

f:id:x-1:20160901103417j:plain

現地の案内板によれば、(以下引用)

この庭園は山畔を巧みに利用した上下二段で構成されている。鶴を形どった池泉部に亀島(蓬莱神仙島)を浮かべており、その背には三尊石を整えている。
さらに庭の左上方には須弥山石を据え、その下に枯滝石組を置く蓬莱山水の手法で作庭されている。(引用ここまで)

時折聞こえる蝉の声以外に何も聞こえない、静かな空間だった。春は枝垂れ桜やツツジが咲いて綺麗だろうな。冬場、雪が積もった景色も良いかもしれない。

f:id:x-1:20170214181849j:plain

上は1934年に島根県が編纂した『島根県下指定史蹟名勝天然紀念物』所載の写真。


染羽天石勝神社本殿

f:id:x-1:20160901110107j:plain

医光寺をあとにして、近所にある国指定重文の染羽天石勝神社本殿を訪ねる。

 

染羽天石勝神社は式内社である。
『神社覈録』に(以下引用)

染羽天石勝命神社
染羽は志美波、天石勝は阿米伊波加豆と訓べし、染羽は地名なるべし、益田荘に在す、今瀧藏權現と稱す(引用ここまで)

とある。現在は現地案内板にもあるように「そめばあめのいわかつ」神社と読んでいるが、もとは「しみは」と読んでいたようだ。栗田寛『神祇志料』には、村中に染羽山、社前に染羽石なるものがあると記されている。

f:id:x-1:20160901110217j:plain

現在でも当社の脇に巨石が存在し、そこから水が染み出て池になっている。古代の人はこの巨石を染羽石と呼び、聖地として祀ったのだろう。

f:id:x-1:20160901110437j:plain

現地の説明板によれば、現社殿は1581年(天正九)の焼失後、益田藤兼、元祥親子により再建されたという。
(以下引用)

本殿は三間社流造で、三間×三間の身舎の前に奥行一間の吹放し板張りの庇床を設け、両側のみに高欄付きの縁をもちます。このような構造は、重要文化財指定の建造物の中では唯一のものです。(引用ここまで)

 

f:id:x-1:20160901110142j:plain

三間社流造は割りとメジャーな部類でよく見かけるのだが、脇に高欄付きの縁があるものは重文建築では唯一らしい。お隣の出雲系とは明らかに違うのが興味深い。


萬福寺本堂、庭園

f:id:x-1:20160901111307j:plain

染羽天石勝神社から歩いて、益田川のほとりにある時宗の寺院・萬福寺へ。ここには国指定重文の萬福寺本堂と国指定史跡・名勝の庭園がある。
現地案内板によれば、萬福寺本堂は1374年(応安七・文中三)、七尾城11代城主益田兼見によって建立された。

f:id:x-1:20160901111328j:plain

方7間とかなり大型の堂々たる建築である。

f:id:x-1:20160901111544j:plain

舟形肘木に長押、廻り縁。
案内板には単に「鎌倉様式」とあるが、この建物はかなり和様の色が強い。室町前期の地方建築として、大変貴重なものである。

内部も見学出来る。

f:id:x-1:20160901112818j:plain

見事な欄間細工。

f:id:x-1:20160901112827j:plain

太い梁、蟇股で大きな屋根を支える。

f:id:x-1:20160901120142j:plain

柱には第2次長州征伐時の弾痕が残る。この寺も陣地として使用され、庭園も戦場となったそうである。

幕末、高津川の東岸が浜田藩、西岸が津和野藩領だったため、益田は国境として重要な地点であった。第2次長州征伐・石州口では、津和野藩が長州に内応し、浜田藩は幕府軍の先鋒となったため、益田が最初の主戦場となった。

長州藩の石州口における実質的な指揮官は村田蔵六で、木村晩翠『石見物語』によれば兵力はおよそ1500。対する幕府軍は浜田藩と応援に来た福山藩兵で、兵力はおよそ750と半数であった。装備も旧式であった幕府軍はひとたまりもなく長州軍に打ち破られ、浜田藩兵は奮戦するも衆寡敵せず、益田はわずか一日あまりで占領された。

長州軍はその後も進撃を続け、浜田城と大森銀山を占領。明治維新まで支配し続けた。

f:id:x-1:20160901113849j:plain

伝・雪舟作、萬福寺庭園。須弥山石を頂点に置き、右に築山、枯滝。池は心字池。医光寺とは少し趣が違うが、やはり雪舟山水画を彷彿とさせる庭園であると思う。

f:id:x-1:20160901121108j:plain

益田川から医光寺方向。あの山上に益田氏の本拠、七尾城があったのだろう。

益田は思っていたよりもずっと歴史や文化の薫りがある良い町だった。柿本人麻呂の縁地でもあるらしい。いつかまた来たいものだ。

 

温泉津


益田駅14時30分発の特急「スーパーおき」で温泉津駅15時31分着。駅まで宿の方に車で迎えに来てもらう。宿に荷物を置かせてもらい、温泉津の町内を散策。

温泉津の町は1908年発行の『島根縣名勝誌』に次のように紹介されている。

温泉津は温泉と港灣とを以て著はる。人家數百岸頭に連り、船舶常に輻湊し、大阪商船會社汽船の定期寄港ありて、商業やゝ盛なり。温泉は、新𦾔二湯あり、鹽類泉にして、温度百十五度、咽喉カタル、肺炎、肝臓病、子宮病等に特効あり。毎年、春夏の交に至れば、浴客群衆して、一日千人に達することあり、温泉として盛なること、縣下第一とす。

明治末頃には島根県で一番の温泉地だったのである。温度115度というのはおそらく華氏によるもので、摂氏に直せば約45度ということになる。

 

f:id:x-1:20160901163146j:plain

f:id:x-1:20160901163152j:plain

温泉津「内藤家庄屋屋敷」。

現地の案内板によれば、毛利元就の家臣、内藤内蔵丞が1570年(元亀元)温泉津港口に鵜の丸城を築き、奉行となった。その内藤家が江戸時代、この地に土着して、代々庄屋として温泉津の有力者となったのだそうである。

温泉津は大森銀山(石見銀山)の付属港であったから、中世から近世にかけて大変に重要な土地だった事が分かる。

歩いて中世の港があった沖泊へ向かう。

f:id:x-1:20160901165941j:plain

日本海に臨む。ここから全世界に石見産の銀が輸出され、ルネッサンスの原動力となり、産業革命を準備させたのだ。

f:id:x-1:20160901170304j:plain

県指定文化財恵比寿神社本殿。これは覆屋で、中に本殿があるのだと思われる。

f:id:x-1:20160901170958j:plain

左手の丘上に鵜の丸城があったという。江戸期は天領であったため、税金はかからず木々の伐採は一切禁じられていた。

f:id:x-1:20160901171914j:plain

中世の土地割を残す沖泊集落。この道の先に大森銀山があるのだ…。

f:id:x-1:20160901172456j:plain

朽ちかけた蔵に往時の繁栄が偲ばれる。

f:id:x-1:20160901175553j:plain

再び暮れなずむ温泉津に戻る。

9日目終。温泉津にて泊。