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愛鷹山系・北面彷徨(須山-大沢-割石峠-呼子岳-越前岳-富士見峠-山神社登山口)

山行 日本二百名山 神社

愛鷹に 朝居る雲の たなびかば 晴れむと待てや 富士のくもりを
若山牧水

 

5月18日。前日までの雨のおかげで、空は透き通るような青空になった。この晴天なら富士山もさぞかしきれいだろう。
この機を逃してはいけない。富士山の展望を狙って出かけることにした。今の時期なら、ちょうどアシタカツツジが見頃に違いない愛鷹登山が絶好だ。

しかし問題が一つ。私の住み処から静岡県の愛鷹山までは距離があるのだ。
一番楽な行き方は、新宿駅まで出て高速バスで御殿場に出るというものなのだが、定時性に欠ける高速バスを往路に使うのは怖い。事故でも起きたらエスケープできず、1日おじゃんである。
そこで電車を乗り継いで行かざるを得ないのだが、JR御殿場線に乗るまでに4回乗り換えねばならない。しかも郊外の朝の通勤は5時台から始まっている。正気じゃない。
それでも気が滅入りそうになる社畜運搬車を乗り継いで、JR松田駅にたどり着いた。このホームからは大きな富士の姿が望める。
それに見とれていた私は、しかしここで重大なミスを犯した。「特急あさぎり」に乗り換える予定だったのだが、小田急新松田駅で乗り換えなければならないのに、JR松田駅に来てしまったのだ。「あさぎり」は小田急から御殿場線に乗り入れる特殊な特急なので、勘違いしていた。
御殿場駅から愛鷹山方面のバスは、午前8時半と9時の2本有るが、このミスで前者に乗れなくなってしまった。今日のような遠距離の日帰り行で、午前中の30分のロスは極めて痛い。

ここぞ御殿場 夏ならば われも登山をこころみん

鉄道唱歌に歌われたJR御殿場駅に、予定より20分遅れの午前8時41分に到着。自宅を出て、実に3時間半の行程であった。
ここから富士急バスで富士サファリパーク方面へ。9時発のバスには私以外では、地元民と思われる客が数名と、男女のペア客が2組乗り込んだ。ハイカーは居ないようである。
車内からは時折、富士の姿が間近に見える。8合目よりも上にはまだ残雪が多いようだ。

30分ほど走り、須山浅間神社入口のバス停で下車する。

愛鷹山の登山口はまだ先なのだが、須山の集落に是非立ち寄ってみたいと思っていたのだ。
現在は裾野市須山となっているが、かつては駿東郡須山村と言い、須山村は富士登山の登山口として栄えた村だった。
中村高平『駿河志料』(1861)の、「須山村」、「浅間社」の項に、当地には土屋氏と杉山氏の11名の御師、2名の巫女がいたことを記している。御師とは富士登山の案内人で、「坊」と呼ばれる宿屋の経営も行っていた。


また、この旧須山村は、1707年(宝永4)の富士山大噴火で最も甚大な被害を受けた地域だった。その被害の大きさは最大で1丈2尺、つまり3m以上もの噴出物で、村が埋もれたという記録からも知れる。
その富士登山口御師村としての遺構や、大噴火の名残のようなものがあれば見てみたいと思ったのである。

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須山から見る富士。宝永火口が正面に、間近に見える。あそこから噴出物が噴出したのだから、東南面が大被害を受けたというのも頷ける。

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まず浅間神社に向かう。神社は北から落ちる又沢と西から流れる用沢川の合流する地点の東岸に位置し、社殿は南面して建っている。この辺りは小字を馬場といい、大きな構えの農家が多い。確かめたわけでは無いけれども、懸かっている表札からして、前記の旧御師の家と思われる。

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境内の前に道興准后の歌碑が建っている。道興准后は旅行記『廻国雑記』の著者で、1486年(文明18)秋、相模から箱根を越えて三島に立ち寄った後、愛鷹山の東麓沿いに北上し、当地に立ち寄って歌を詠んだ。

すはま口といふより、富士のふもとにいたりて雪をかきわけて

(すはまといへるは洲濱の義にて、このほとり富士の焦砂の集りて洲の如くなれるによれる名にや。今も老人はこの村をすわまと稱るもの有)
 よそに見し 富士のしらゆき けふわけぬ こゝろのみちを 神にまかせて

駿河志料』に、

須山は深山とも書き、「スヤマ」とも「スワマ」とも云

と書かれているので、この「すはま口」は当地のことであろう。
道興准后はこの後、十里木越えをして愛鷹山の西麓を南下し、東海道に出て再び相模へと東下したようである。

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境内は杉の巨木が林立し、神秘的な雰囲気である。

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これは慶長年間に建立されたという旧本殿。素朴な流造りで、なるほど桃山期の趣がある。後の時代に末社の社殿として流用されていたようだ。

静岡県駿東郡編『静岡県駿東郡誌』(1917)によれば、郷社浅間神社として、

當社は富士山南口下の宮と稱し、俗に下淺間と唱ふ。(中略)富士登山道、南口の文字鎭座として其創建最も古きことなるも、此地寶永噴火の時非常の惨害を蒙り、古文書烏有に歸するもの多く加ふるに同年の災害より安永年間まて殆ど七十年間、富士登山道梗塞し、登山道者中絶の爲め神社並に神主等衰微甚しく、隨て社記社寶等散逸傳はらず、(後略)

とある。『駿河志料』によれば、当社には武田信虎の願文があり、大永年間の棟札も残されていたそうだ。武田晴信が生誕したのが大永元年のことであるから、その時代に駿河駿東郡武田信虎が影響力を及ぼしていたというのは驚きである。

新庄道雄『駿河国風土記』(1816頃)に面白い記事がある。

寳永四年の神火は此山路(筆者注:十里木越え)のほとりより起り、砂石を降し新山涌出するほどの事なれば此道くづれ絶て登ることあたはず。通路のたえたること三十余年なり。寳暦の末の頃より漸く登る事となれり。然れども路もさだまらず途中に休むべきむろと云ものもなかりしかば登山の人まれなり。遠夷物語は明和六己丑年の記なれども須山今更登希也とあり。然るに寛政年中より此路に室も所々につくりそへなどして今は登山のもの村山(筆者注:旧富士宮登山道)よりも多し。須山浅間神主渡邊隼人といへるものは歌などもよみて古學にも志しありし人にて此神社はさらなり。登山の道の衰たるをなげきまた此道の事の古より世に聞えずありし事をなげきて一年江戸に出たる時塙保己一のもとにいたり。富士山の須山と云事古き書に出たるは聞給はずやと問しに群書類聚の中なる回國雑記の文を書抜て出されたるをよろこび持かえりしとて(以下略)

明和6年は1769年、寛政は1789年から1801年。

噴火後の須山登山道の苦難の歴史については、裾野市のホームページに紹介されているものが分かりやすい。ここには安永9年、1780年に復興と書いてあるので、『新風土記』の記述にほぼ合致する。

また須山浅間神社の神主に「須山について書かれた本は無いか」と尋ねられ、即座に『回國雑記』を持ってくる塙保己一が凄い。この人は個人的に日本史上でも有数の大偉人だと評価しているが、こういう実例を出されると改めて凄い人だと思う。

こうして須山集落の人々の努力によって、噴火によって壊滅した須山口登山道は、いったんは復活を遂げる。明治に入り、かのアーネスト・サトウも須山口から富士山に登ったことを記している。(『日本旅行日記』平凡社東洋文庫所収)

しかし明治中頃になると、懸命なる登山道の復興運動にも関わらず、鉄道の開通による交通の変化、陸軍演習場の開設等によって、伝統ある登山道は衰退してしまったのである。須山登山道は1997年に再復興されたが、いつかここから富士に登ってみたいものである。

なお裾野市の記事中にある渡辺徳逸という方は、越前岳東の愛鷹山荘を作られた方で、105歳まで長命を保たれたということである。もしかしたら渡邊隼人の子孫の方だろうか(未確認)。

 

さて、今日の目的はあくまで愛鷹山登山である。神社の駐車場にある真新しいトイレを借り、日焼け止めを塗って、登山口を目指して歩く。

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須山集落の鯉のぼりと愛鷹山北面。現在の須山はのどかな山村で、300年前の噴火の名残をとどめるものは何も無かった。やはり300年という時の流れは1丈以上降り積もった火山灰も消し去ってしまうものなのか。まあ、生活している人がいる以上、当たり前といえば当たり前なのだが。なお宝永の大噴火に関連しては、新田次郎の時代長編小説『怒る富士』が当時の幕府内の権力闘争などを絡めて書かれており面白い。

さて、ここでまた計算違いが発生した。須山にあるはずのファミリーマートが(おそらく一昨年夏に)閉店していたのである。神社入口バス停の近くに個人商店があることは把握していたが、そこまでまた戻るとさらにタイムロスになってしまう。仕方がないので、買い出しは諦め、持ってきた食料で何とかすることにする。

国道469号線の十里木峠に続く道を西に向かって歩く。なかなかの坂道だ。この道は往古、東海道の裏街道だったという。『駿河国風土記』には『万葉仙覺抄』にも出る上古の東海道なり、と書いてあるが、それが事実かはともかく、古くから有る裏街道だったことは間違いない。自分で歩いてみて実感したが、おそらく中世から近世、東海道を行く旅人は、夏場は涼しいこちらの道を選んだのではなかろうか。特に江戸時代には東海道は参勤交代の大名行列もあり、急ぐ人には煩わしかっただろう。南に愛鷹山を、北に富士を眺め、旅したに違いない。

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そんなことを考えつつ10時20分、登山口着。日帰り登山開始時刻としてはかなり遅いが…。

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ここからはしばらく杉の植林帯の舗装道である。杉はきれいに枝打ちされていたが、やや密集しすぎの感がある。間伐が必要な時期ではなかろうか。
15分ほどで山神社駐車場に着く。5台ほど車が止まっていたが、すべて他県ナンバーであった。地図にはトイレ有りと書かれているが仮設である。車で来られた方は上記の浅間神社の新しいトイレを使用された方がいいと思う。

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山神社の下に、松永塚がある。1928年10月、愛鷹山中で遭難死した静岡商業の学生の霊を弔うものだそうだ。
越前岳へはこの山神社・松永塚から北西に行くのが早い。だが私はまず、大沢沿いに呼子岳方面に登ることにした。今思い返すと、この判断は誤りであった…。
この大沢登りの登山道は、大きな岩が転がる道を這い上り、沢を何度も渡渉しなければならない。

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沢水はやや増水しているものの、飛び石づたいに濡れずに渡ることが出来た。

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目には青葉。新緑が美しい。

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苔むした岩場を行く。

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11時25分、出合いに到着。前岳・位牌岳方面にはここから南か(未確認)。

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岩がごろごろ。山道には踏み跡があるが、当然岩場には踏み跡など無いので、色テープや赤スプレーを頼りに登る。コースには必ずテープが巻かれているので、おかしいなと思ったらテープの位置まで戻り、次のテープを探すこと。ここは道迷いの可能性もゼロではないと思う。

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大杉。

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何度沢を渡ったか忘れてしまった。

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11時52分、沢分岐に到着。分岐ということはバリエーションルートでもあるのだろうか?
お昼になったが、行動食にとどめ、昼食は稜線に出るまでお預けにする。

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遥か頭上の岩場にツツジが咲いていた。標高の低い場所ではツツジは既に終わっていた。

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左手なので鋸岳方面の岩場だろうか…。

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撮っている時はミツバツチグリかと思っていたが、帰って調べたらツルキンバイのようだ。群生していた。

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ヒコーキ雲。越前岳の山中は、時折自衛隊の演習音が響いたが、この辺りは静かなものだった。

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来し方を振り返る。

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新緑の中にツツジのアクセント。

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やっとのことで12時半過ぎ、割石峠に到着。傾いた道標。

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その名の元となった断崖。向こうは駿河湾だ。凄い光景。新田次郎に『愛鷹山』という小品がある。あまり出来の良い作品では無いが、ここから鋸岳方面が物語のクライマックスになっている。

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伊豆も見える。ふっと鼻先に生暖かい潮風を感じる。

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ハシゴ。ここで今日初めて人とすれ違う。ソロの男性。大沢を下るのかな。まさか鋸岳方面へは行かないと思うが…。

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ここからは痩せ尾根伝いで、小ピークの連続だった。昼食を取るどころではなく、水と行動食で精一杯。本当に消耗させられた。時折覗く駿河湾方面の景色は絶景だったが…。

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足柄・西丹沢方面だろうか。確認するほどの余裕が無く。

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あれが越前岳かな-。

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アシタカツツジ? でも葉が三枚だからミツバツツジか。稜線では咲きかけか、つぼみだった。ピークは6月というのは本当かも知れないな。

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呼子岳手前。越前岳の方が高い!

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遥かに南アルプスも見える。

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12時52分。やっとの思いで愛鷹山系・呼子岳(1313m)に登頂。割石から西でさえこうなのだから、鋸岳方面はシャレにならないだろう。一日で愛鷹山系を縦走する猛者は、人ではなく天狗のレベルと言って良い。

時事新報家庭部編『旅の小遣帳』(1930)に次のような記事が紹介されている。出版は松永君遭難の2年後である。


初夏の愛鷹山
 道順は御殿場驛下車、須山村に入り大坂から黒岳を右に見て進み、黒岳山麓の山之神社から右折、尾根傳ひに水場、惡澤ガレンを通つて、越前岳に達し、此處から南下して呼子岳、屏風岩、三枚齒、鋸岳、位牌岳等を經て馬場平に出、最後に愛鷹山を登攀して鷹根村に下り原驛から歸京します。全行程凡そ六里。時間は休息を入れて十三時間あれば充分です。私の行程では東京驛發午後十時鳥羽行、御殿場驛着翌午前十二時五十三分、須山着午前二時、此處で一寝入りして、須山出發四時三十分、越前岳着八時三十分、位牌岳通過午後二時、愛鷹山着四時、歸りの汽車は原驛發八時で東京驛着十一時五十九分でした。
 景色は越前岳から先は森林に富み、呼子岳から鋸岳、位牌岳にかけては老樹鬱蒼たる自然林で、中でも馬場平の森林は山毛欅(ぶな)の密林で、その森林美は素晴らしいものです。眺望は惡澤ガレン、越前岳、呼子岳、愛鷹山等至る所優れ、伊豆連山、日本アルプス駿河灣、箱根が繪の様に美しく、特に越前岳から見る富士の奇は、此處ならでは見られません。尚この山塊には奇岩怪石の妙もそなはり、三枚齒の奇は寧ろ人を慄然たらしめます。

夜行列車で御殿場に入り、須山で前泊、早朝4時半に発って原駅着が20時。なんと行動時間15時間半で縦走!! 登山口から大沢に入り、山の神から現在の愛鷹山荘・銀名水地点へ登り、越前岳へ登頂するまで4時間。そこから山系を縦走する場合の注意点など、現在とほぼ変わらないのが興味深い。越前岳から位牌岳まで5時間半かかっているので、現在は通行止めになっている鋸岳周辺が、当時から非常な難所だったことが分かる。

ともあれ愛鷹山系初登頂である。山頂のツツジはまだつぼみ。こりゃ越前岳のアシタカツツジも期待できそうにないな、と考えながら遅めの昼食をとる。

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田子の浦方面へ視界が広がる。

田子のうらをはるゝと、なかめやりて、よめる
 千さとより ちさとにつゝく ふじのねの ゆきのふもとや 田子のうらなみ
道興准后『廻国雑記』

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富士川河口、興津清見、清水三保まで望める。素晴らしい景色。
駿河湾から南風に乗って湿った風が入り込むのが分かる。この辺りは霧が多いと言うが、その理由が分かる。暖かく湿った海風と、乾いて冷たい富士颪が出会い、凹地に滞留するのだろう。

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尾根道を行く。割石から呼子までの道よりはマシだが、やはり断崖沿いのアップダウンが多い。
この辺りで夫婦連れとすれ違う。人の良さそうなお二人で、越前岳まではきつい登りだよと教えてくれたが、アップダウンの連続よりよりはずっといい。

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14時、日本二百名山愛鷹山系・越前岳(1504m)登頂。いやー、結構な達成感がありました。

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山頂から南へは素晴らしい景色。伊豆半島から南アルプス南部まで一望できる。

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富士山は宝永火口から上だけ。

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二等三角点。

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思った通りツツジはつぼみでした。これもミツバツツジかな。山頂付近は群生しているので、探せばアシタカツツジもあると思う。

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20分ほど休憩し、下山開始。十里木方面と黒岳方面でどちらに行くか迷ったが、黒岳方面へ下ることにした。下山開始してすぐに夫婦連れとすれ違った。14時半に山頂とは、ずいぶんのんびりだなと自分を棚に上げて思う。まあ十里木に降りるならコースタイムで1時間半なので、今からでも遅くはないか。

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富士見台手前から。手が届きそうなくらい近くに見える。宝永火口が、まるで富士が大きく開けた口のようだ。

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富士見台から。富士とツツジ
1938年(昭和13)発行の50銭紙幣に描かれた富士山は、この付近から岡田紅陽によって撮影された写真が元となっている。

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その作品がこちら。『富士百影作品集』第8輯(1932-1934)に所収。たなびく雲が富士山の神々しさを効果的に見せている。奇跡的な作品だ。

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富士見台からしばらく行った鋸岳遠望地。鋸というか、サメの歯のようだ。わざわざあそこを行く人が居るというのだから、本当に信じられない。

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ここから先の道は、やや荒れ気味だった。崩壊しやすい土質なのだろう。

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15時46分、富士見峠に到着。
ここから黒岳へはコースタイムで25分、往復で45分だ。帰りのバスは愛鷹登山口バス停で16時49分発、次の終バスは18時過ぎ。黒岳に寄れば当然、終バスに乗ることになるが、その場合、帰宅は深夜になってしまう。
本当に後ろ髪引かれたが、諦めて16時49分発のバスに乗るため、山神社方面に下ることにした。

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しばらく下ると避難小屋「あしたか山荘」がある。中を覗かせてもらったが、なかなかきれいに整頓されていた。が、裏手から小動物の鳴き声が聞こえてきた。どうやら小屋の裏が、ネズミかイタチか何かのねぐらになっているらしい。
水場の水がちゃんとしていれば泊まれるかもと思ったが、前日の雨の影響か、普段からそうなのか分からないが、濁っていてとても飲めそうに無かった。東南アジアで生水グビグビいけますという人なら……まあやめておいた方がよかろうと思う。

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トイレは男小キジ専用と書かれたものが一棟。普通に垂れ流しのようだった。
ここから下は整備の行き届いた登山道だった。

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16時半、山神社到着。無事下山のお礼に頭を下げる。

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16時40分、愛鷹登山口バス停に到着。ここから西は十里木越えの峠道だ。
16時49分発のバスで帰途に就く。バス車内から富士を見上げると、ガスがかかり始めていた。


さて、今回の山行は反省点が多かった。
まず乗る電車を間違えたこと。本当にイージーミスだった。日の長い時期だったから良かったものの、秋冬ならば午前中の30分のロスは、命を左右しかねない。
次に買い出ししようと思っていたコンビニが閉店していたこと。お店が少ない地域では、現在も営業しているかどうか、事前に調べるべきだった。

そして、下調べをせずコースを適当に選んだこと。初めての越前岳登山で、かつ今日のような展望の期待できる日ならば、山神社から黒岳に登り、富士見台、越前岳を極め、十里木に降りるべきであった。スタート時間が遅かったのだから、無理の無いルートを選ぶべきだった。なお十里木登山口は標高870m、愛鷹登山口は700m、須山集落は600m程。十里木に降りた方が楽なのは言うまでも無い。割石峠付近の景色は見応えがあったが、大沢登りは労多く、益少なしだった。
また、行き帰りの長時間にわたる電車での移動も大変だった。遠征時は、通勤客の少ない時間・ルートを選ぶべきだろう。

 

しかし、太平洋と富士山を同時に、しかも間近に望める越前岳は、良い山だった。次は是非、十里木方面や南側も訪ねてみたい。

 

※このレポートでは、文中に注記した文献・ウェブサイトの他に、愛鷹山ハイキングガイドを参考にしました。素晴らしい情報量のウェブサイトです。ありがとうございました。